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  • 執筆者の写真美幸 大城

大城みゆき物語り

第一回 ■ひまわり作業所■

 沖縄大学のゼミの先生の紹介で障害者の作業所の施設見学をしたときの光景を大城みゆきは忘れることが

できません。部屋の一番奥のベッドに水頭症で寝たきりの子どもがいました。 

「この子はほとんど意識がないんです。だからでしょうけど、親も一度も見舞いに来ないのね。」

 

看護婦さんはそう説明したあと、その子の頭をなでたり、手をさわったりして、

「でも、がんばって生きてるんだよね。」と声をかけています。

その子の目がギョロッと動きました。看護婦さんは、「うれしいの?」と聞き、また頭をなでてあげました。

どんなに重い障害があろうとも、人が生きている限り、命の瞬間、

瞬間を少しでも輝かせようと努力している人の姿はとても感動的でした。 

「私もこういう仕事がしたい」中学生のころからマザーテレサに憧れていた大城みゆきは、

そのときそう思ったのです。 

   *     *    

 大学を卒業して2年間は、無認可保育所の保母として働きました。

26歳のとき、2週間ほど遊んで帰るつもりで東京へ行き、三鷹市井口の叔母さん(母の妹)の家に泊めて

もらいました。いろいろ話をしていると、叔母さんの夫の三瓶(さんぺい)さんは、精神障害者の作業所

・ひまわり作業所の運営委員長をしていることがわかり、大城みゆきは言いました。

 

「その作業所見てみたい!」

「いいよ、でもオレがおじさんだって言うなよ」

 

 朝から見学に行った大城みゆきは、作業所の仕事を手伝ったり、

メンバーの人たちとおしゃべりをしたりして、実に楽しく一日を過ごしました。

 

その様子を見ていた人が、三瓶さんに言いました。

 

「いい娘じゃない! うちの作業所で働いてくれないかな」

 

 ちょうど、ひまわり作業所の所長が産休に入るため代替職員をさがしていた時だったのです。

三瓶さんもその気になって、「どうだろう」と聞いてきました。

 

 思わぬ展開におどろきましたが、もとより障害者の施設で働くのが夢ですから、

喜んでOKしたいところです。でも、と大城みゆきは考え直しました。

というのは、最近、集団就職で本土に働きに行っていた高校時代の同級生が5人とも、

親に呼び戻されて沖縄に帰ってきたばかりだったのです。 

「本土の人と結婚されたら大変だ。近くにいないと孫の顔も見られないし、

病気も心配だ」という親の願いを受け入れての集団帰郷でした。

だから、ウチの親も許さないだろうと思ったのです。

「親がOKならいいです」と、大城みゆきが答えると、三瓶さんが言いました。

 

「じゃあ、今すぐ電話して聞いてくれよ」

 

 大城みゆきはすぐ沖縄の実家に電話しました。「お前がやりたかった仕事なんだから一生懸命やりなさい」 母親の意外な言葉がすぐには信じられず、大城みゆきは「本当にいいの?」と確かめたのでした。翌日から2週間、遊びのスケジュールをすべて中止して、大城みゆきは障害者のメンバーといっしょに作業所で働きました。 

   *     *     * 

 障害者の人たちが、病院を退院して一人暮らしを始め、作業所に通うことで仲間をつくり、

働く喜びを実感し、笑顔を取り戻していく姿に大城みゆきは感動し、励まされていました。 

 しかし一方で、精神障害者への誤解や偏見も根強く、市内の事業所まわりをしたときも、仕事をもらうのに苦労しました。社会的にも精神障害者は障害者として認められていなかったので、障害者手当てもなく、心身障害者とは扱いがちがっていました。障害者の自立を支える作業所の仕事をつうじて、大城みゆきは社会や政治の矛盾にも目を向けざるを得ませんでした。 

 市議会議員になってほしいと言われたときも、障害者や高齢者、子どもたち、社会的に弱い立場の人たちの声が生きる政治を実現したいという思いから、その仕事を迷わず引き受けたのです。


第ニ回 ■出会い■ ※第二回から第五回までは夫の神田高さん(弁護士)が語ったものです  1995年9月、沖縄でおきた米兵の少女暴行事件をきっかけに米軍基地反対の大きな運動がもりあがっていたころです。  共産党の沖縄県議団が上京し、沖縄県民への日頃の支援に感謝する「ごくろうさん会」が、池袋の中華料理店でひらかれました。   私は、戦争のために土地を使わせないとがんばっている「反戦地主」の弁護士として、この会に招かれていました。  私が受付で署名しようとしていると、うしろから紅い服を着た小柄な女性が息せき切って走ってきました。その女性がすごく急いでいるようなので、私はどうぞとゆずってあげました。胸に議員バッジをつけています。どこかの地方議員かなと思って受付名簿を見ると、「三鷹市 大城美幸」と書かれていました。   *      *  1996年8月ごろ、まだ暑いさなかでした。沖縄出身のZという友人から「沖縄出身で共産党の女性議員がくるから一緒に飲もう」と誘われました。  大城の方は「沖縄のことになると夢中になってしゃべりだしたら止まらない弁護士がいるよ。大城さんと話が合うと思うよ」と誘われたようです。場所は、高円寺の抱瓶(だちびん)という沖縄料理のお店でした。  飲み会のメンバーはほかに学生のカップルとZさんの5人でした。みんなよく飲み、よくしゃべり、場はすっかりなごんでいました。 「腹がへったなぁ。沖縄そばがいいな」私が注文しました。  大きなどんぶりの沖縄そばがきました。私が一人で食べようとすると、となりに座っていた大城みゆきが、ごく自然な仕草で沖縄そばを5人に取り分けはじめたのです。  大城みゆきの生まれ育った沖縄の家は11人の大家族でした。11人がいつも揃って食卓を囲み、料理はみんなで分けて食べていました。私にとってそれはカルチャーショックと言ってもいいような強烈な体験でした。  自分が注文した料理は自分が一人で食べるという習慣や私の感性が否定されたわけですが、不思議に不快な気持にならず、その時、私は「いい娘だな」と思ったのです。私が41歳、大城みゆきが31歳でした。



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